揺れる花ろうそく


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ろうそくの炎のように

  遠い先祖の魂を求め

     揺らいでいる鶏頭の花

        やわ肌の秋海どうの葉と花も

            合掌するように

                寄り添っています

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白磁に照り葉一枚



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 李朝(りちょう)時代の 白磁小壺

    朝鮮は儒教の影響で白は清楚を意味し

      とても重要視されました。

        照り葉一枚でも充分な存在感があります。

        
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ま東から真西へ


真東からの日の出


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真西の浄土へ



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今日は昼夜の長さが同じ

当たり前の事でも

ただ ただ 感謝です。



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秋のお彼岸は花の萩に因んで「おはぎ」を

そろそろ、お下がりをいただきます。



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落ち葉かごに 乙女 こころを一杯摘んで


空までが薄紅色に染まりそう

   過ぎ去った思い出まで

      楽しいメロデイーに

         変奏してくれそう

            そんな秋桜に出会えて

               嬉しい秋の午後

          か細い葦からは
      
    優しいあきの音色が・・

         

  
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     こんな美人さんも 聴いています。

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彼岸の入り・・数珠サンゴの実


赤い実が珊瑚のように可愛い


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お数珠のようです

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お釈迦様が霊鷲山に居られた時

ハリルの王様が、「自分の国は疫病が絶えず、貧しく、御救いください」といいました。

すると、御釈迦様は(木かん樹)というの実 百八個を環に通して

「これを身体離さず、心から仏様の御名を唱え

一つずつ繰って、二十万遍になった時心身安楽になり、国家も安泰に

、さらに百万遍になった時

百八の煩悩も断ち切ることができる」と

この数珠を授けられました。(ある本より抜粋)

悩み多きこの此岸の(しがん) (俗世界)に生きている私たち

今日から七日間 彼岸に到らさせていただく為にも

お数珠は身近なものかもしれませんね。






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主人公は女郎花

  
秋の七草の女郎花(おみなえし)は凛として

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花器は 陶芸家 原 太楽氏(京都)


謡曲 「女郎花」より

昔、八幡市の 男山に、小野頼風という男が住んでいました。

ある日、彼の京女が尋ねてきました。

しかし、頼風が不在だったので、女は「自分は捨てられた」と

誤解して、法生川に身を投げました。

男は嘆き、墓に埋葬しました。

すると其処から女の脱ぎ捨てた衣と同じ色の

「女郎花」の花が咲きだしたそうです。   (諸説あり)

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女塚




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(八幡市立 松花堂庭園の中にあります。)

頼風の塚


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(女塚とは離れた民家の庭にあります。)

男朗花の花は白い米粒のようです。こんな感じでしょうか?


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ある僧侶の慈悲深い供養により、あの空の彼方では隣同士おられるそうです。










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美味しそうな金平糖


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たで科のコンペイトウ草 

ポルトガル語の confeitoコンフェイトが訛りコンペイトーに

別名 溝蕎麦 溝に咲く蕎麦みたいな花を咲かせるから。

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1569年ポルガルの宣教師ルイス・フロイスが

織田信長に献上したのが最初だそうです

新しいものが好きな信長はさぞ喜ばれたことでしょう。

花も飴も小粒は可愛いですね。



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気のはやい彼岸花とニラの花のダンス


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サンスクリット語で Manjusaka 天蓋に咲く花

おめでたい兆しの赤い花が天から舞い降り

人々にハットさせる華

此の花ほど多くの名をもっている華はないでしょう。

曼珠沙華 天蓋花 狐の松明 死人花 幽霊花 地獄花 

葉見ず花見ず(花が先に咲き終わってから葉が出てくることから)

やはり、彼岸花が親しみが湧きます。

怪しいオーラを漂わせながら、

真白いニラの花と楽しそうに踊っています。

もうすぐ、お彼岸ですね。



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松虫草・・松虫と鈴虫の伝記

松虫草


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古のむし籠


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秋の装いの えのころ草の茂みに、松虫、鈴虫も 声明を唱えています。



建永の法難


鎌倉時代は、貴族仏教が全盛で 庶民は荒れ狂う戦乱の世に

心の拠り所に仏教をもとめていました。

その頃 京都の鹿ヶ谷の安楽寺に法然の弟子の

住蓮坊と安楽坊という僧侶が住んでいました。

二人のうっとりする声明に、

仏門に帰依する者が大勢いました。

その中に、後鳥羽上皇の側室であった、松虫、鈴虫も出家し尼になりました。

上皇の怒りにふれ、法然は土佐に、親鸞は越後に流され、

ふたりの僧侶は殺され、松虫、鈴虫は自ら命を絶ちました。

数年後、

流刑から戻った法然は嘆き悲しみ、この安楽寺を復興しました。

現在も、11月に法要が勤められています。




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